マニラノート

ある日本人学校派遣教員のフィリピン滞在記

1990年4月。

一人の青年教師が,マニラの国際空港に降り立った。不安げな妻を連れ,そして何も分からない1歳の子どもを背負っている。

「海外の劣悪な条件の下でがんばっている日本の子どもたちのために力になりたい」

彼は海外日本人学校派遣希望の動機について,文部省での面接をはじめ,公式に尋ねられると,いつもこのように答えた。

この記録は,彼が3年間のフィリピン在任中に書きためた日記の一部である。彼が感じ,考えたことが,彼の癖で多少粉飾されて書かれている。小学校のホームページ内にある以上,あまり立ち入ることのできない話題もあるので,それは割愛した。また,千葉大学のサーバーに間借りしている以上,何らかの教育的意義がなくてはならないので,「これから海外日本人学校派遣を希望する教師」及び「海外赴任が決まって子どもを連れていくことになるかもしれない方」の参考にしていただく,という大義名分を唱えさせていただくことにした。果たして本当に参考になるとは,これを紹介する私自身信じてはいない。しかし,彼はフィリピンという国を愛している。その愛を読んでくださる方々と分け合いたい。


今後この連載が続くという保証はありませんが,一応目次を作ります。

目次
空港にて
マカティー
カーテン事件
下痢
グッバイ・ジミー
ジプニー
スモーキーマウンテン
バギオ大地震
不安と緊張の渦巻く旅
洪水が襲う
湾岸危機
ピナトゥボ大噴火
マニラの生き物
ベイビー・ローズ
バギオへ
コレヒドール
バナウェへの旅

                 


空港にて

赴任から2ヶ月ほど経ったころ,赴任の日を思い出して詠める

ニノイ・アキノ国際空港(注1)に着いたのは,午後2時頃だったと思う。大使館のお役人も出迎えに来るとき明るい太陽,そして明るいフィリピンの女の子いて,着慣れないスーツを着たままだった僕の背中は,直ぐに汗でべっとりとしてきた。それでもその日は,曇り空で幾分涼しいということを聞いて,これから先の暑さを想像し,いささかげんなりする思いだった。

空港で税関や入国の手続きを済ませ外にでると,そこは期待通りの異国だ。怪しげな(少なくとも僕にはそう見えた)客引きがなにやら話しかけてきたりする。極彩色のジプニー(注2)が,排気ガスをまき散らし,クラクションの洪水の中を縫うように走り抜ける。出迎えに来てくださった先生方もやけに英語の混ざった会話をする。(今にして思えば地名人名の類だったのかもしれないが…)

そのときの景色こそが,僕の本来の状況を表していたのではないかと思う。僕は今よりももっともっとこの異国の生活に身を晒すべきなのだ。着任後2ヶ月が経った今,僕は便利な生活に慣れすぎてしまっている。本来僕は冒険を求めて日本を出てきたはずなのに…。

僕に与えられた時間は短い。3年というのは比喩に過ぎないが,ここを離れてもなお僕たちは限られた時間の中に生きているのだ。


(1)ニノイ・アキノ国際空港  私の記憶が確からならば,マニラ国際空港にこの名称が用いられたのは,暗殺されたニノイ・アキノ氏の未亡人,コラソン・アキノ女史が大統領だった期間だけであった。

(2)ジプニー  フィリピンの代表的交通機関。ジープの荷台がうーんと長くなったものを想像していただければ間違いない。もとは第2時大戦後に米軍から払い下げられたジープを改造したものだったそうだが,現在のものは車体はフィリピンで作ったもの,エンジンは「いすゞ」などの日本のトラックの中古を使っているものが多い。運転はきわめて乱暴である。これに乗るには,多少の技術を要するが,運転手さんの見事な運賃の計算やお客とのメッセージ交換は一見の価値がある。


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マカティー

赴任当時のマニラの買い物事情を詠める

「マカティーに買い物にいく」と僕たちが使う場合,マカティー・コマーシャルセンター(注3)を指している。歴史的にはスペインから来た,この国最大の財閥「アヤラ財閥」の先祖が,フィリピン人によって教会に寄贈された広大な土地を,かなり安い値段で払い下げてもらい,そこを大々的に開発した地域らしい。その不動産資本を背景にアヤラ財閥は成長し,民衆はいっそう貧富の差を広げている。(注4)現在も外資系の企業のオフィスが並んでおり,外国資本や白いフィリピン人(注5)による民衆搾取の象徴と言ってもいい。

が,ここで書こうとすることはそのようなことではない。ここでの流通状態のことである。マニラに赴任する前,僕たちはいろいろな想像をせざるを得なかった。たとえばミャンマーで3年暮らすには,トイレットペーパーを3年分持っていった方がいいらしいが,我々は大丈夫だろうか,という風に…。(注6)

幸いにして,トイレットペーパーに困ったという話は,日本にいたときも聞かずに済んだが,僕たち夫婦は50枚以上のTシャツを用意したり,2000枚ものワープロ感熱紙を買ったりした。

しかし,多くは無駄だったと言ってもいいだろう。こちらには実にたくさんのものが流通している。Tシャツなどは半額でいいものが買える。出発前のあの焦りや不安が,今になると滑稽に思い出される。


(3)マカティー・コマーシャルセンター  私の在任は1990年4月から1993年3月まで。その間にも,マカティーは,日々発展し続けていたし,その後も大きく変化したらしい。また,やや郊外のケソンの方などにも巨大なショッピングモールが次々に誕生していた。本当にあれでASEANのお荷物と言われるように経済が停滞しているんだろうかと思う。

(4)アヤラ財閥  ここはNHKの番組の中で言っていたことを引用したもので,筆者が個人的に敵意を持っているわけではない。念のため。

(5)白いフィリピン人  フィリピンの歴史は植民地支配の歴史である。スペイン400年,アメリカ40年,日本4年,と言われている。やはり400年間支配したスペインの影響は大きく,特に経済の面での影響は未だに残っているようである。スペインからやってきてフィリピン人になった一部の人々は「白いフィリピン人」と言われ,フィリピン経済を牛耳っている一族もいる。

(6)ミャンマーの事情  日本人学校派遣が内定すると,筑波大学の宿泊施設を使って,1週間もの宿泊研修があった。そこで初めて現地の様子などを聞かされるわけだが,何しろ不安の方が先立っているため,このような流言飛語が飛び交うのである。しかし,アジア・アフリカ地区と,アメリカ・ヨーロッパ地区とに分かれての「医療事情」の研修ほど,我々の不安をかき立てたものはなかった。


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カーテン事件

国際理解の難しさを初めて感じて詠める

新居に入って3日目のこと。僕たちの新居にはダイニングテーブルやベッドなどの必要条件は一応そろっていたが,生活に潤いをもたらすべき十分条件は皆無に等しかった。それを知ってか知らずか,さっそく元町先生の紹介と名乗るエドナというカーテン屋が,僕たちを訪ねてきた。明るい太陽,そして明るいフィリピンの男!?(元町先生というのは,僕がここになれるまでお世話をしてくださる係の先生で,多分この後も何度も登場することになるであろう。無論仮名である。ちなみにこの次に登場する秋山先生は,僕と一緒にここに赴任したひとで,ここでは隣同士になったし,年齢,家族構成なども近いので,さらにしばしば登場することになるであろう。このときも一緒にカーテンを頼んだ。)愛らしい,というには少し老けていたが,賢そうな,感じのいい女性だった。渡りに船!と喜んだことはいうまでもない。直ぐに寸法を測ってもらい見積もりをしてもらった。見積もりの結果,日本円にして約7万円(注7)。そんなに安くないなぁと思いながらも,まあそんなものなんだろうと契約してしまった。エドナが帰ってからおよそ5分後。元町先生から電話があった。

「今,秋山さんから電話があったけど,カーテンやさんはもう帰ったか?」

という電話だった。何のことだか初めは分からなかったが,こういうことだった。エドナというカーテン屋の料金は法外に高いそうである。実をいえば元町先生自身,昨年エドナから買って大変後悔したらしい。当然紹介などしていないと言う。直ぐに家に駆けつけてくれた。が,時すでに遅し。この時の元町氏の言葉が忘れられない。『もしかしてエドナさんは,果物持ってこなかった?』『あれにころっとやられるんだ』目をやると,我が家のダイニングテーブルにも,いかにもちゃっかりと,黄色いマンゴ(注8)が一袋のっかっていたのである

この後の直ぐの日曜日,エドナが縫い終わったカーテンを取り付けにきた。腹立たしかったがあちらは何事もないようににこにこしている。ディスカウントの交渉をしたり,元町氏の名をかたったことを追求したりしたが効果がなく,このまま引き下がるのも無念と思って「もう要らないから帰れ」と日本語で怒鳴ったりしていくらか値引きをさせた。

この事件ともいえないような出来事は,少々フィリピンの印象を悪いものにした。何も知らない僕たちから法外な料金を巻き上げようとするなんて…。いくら日本人が金持ちと見られているからってひどすぎる…。フィリピン人は…。

もっとも彼女にすれば日本人の印象を悪くしただろう。何も僕が日本人を代表しているわけでもないし,彼女がフィリピン人を代表しているはずもないのだが,国際理解というのはこのような些細なことの積み重ねからほころびるのかもしれない。そういえば,エドナの縫ったカーテンには多くのほころびがあった。


(7)換金レート  私が赴任した当時の換金レートは1ペソが約7円であった。が,湾岸危機を契機に見る見るペソの値段は下がり,帰国間近の頃は1ペソ約4円になっていた。このため,私は大きな損害を被った。

(8)マンゴ  フィリピンには果物が多い。中でももっともフィリピンらしい果物というと,マンゴとバナナ。バナナは日本で見るような大きなものは珍しい。この辺の事情は「バナナと日本人」(だったと思う)という著書に詳しい。要するに輸出されるようなバナナはフィリピン人は口にすることがないのである。


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