6.ここは京都市上京区寺町今出川の本満寺です。H12.7.17.描く
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人皇101代後小松天皇の御宇、応永17年(1410年)の創立で開山は 王洞院日秀上人で近衛関白左大臣道嗣の嫡子ですが本国寺5世 日伝上人について出家され朝廷より敷地3万坪を与えられ広宣流布 山本願満寺と号した。現山号はその略称である。本満寺の歴世の なかでは12世日重13世日乾14世日遠はそれぞれあいついで身延山 の20、21、22世の法主となり祖山中興の3祖として名を遺し、 江戸初期の宗門の教学を振興した。
7.ここは京都市上京区小川通り寺のうちの本法寺です。H12.7.17描く
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叡昌山本法寺は久遠成院日親上人の開創で1436年に京都東洞院綾小路に 建立される。日親上人は時の将軍足利義政に「立正治国論」を献じ平和 の招来を直言したがこれが将軍の忌憚に触れ503日獄舎に投ぜられる 鍋を焼いて頭に冠せるという残虐極まる拷問を受ける。天正15年1587年 豊臣秀吉の帰依を受け現在の地を与えられ今日の本法寺の基礎が成る。 天明8年(1788年)の大火により経蔵と宝庫を残し多くの堂舎を失った。 又本法寺は本阿弥清信が日親上人と獄舎を共にするうち上人に帰依した ことから本阿弥家と深い関係があり本阿弥光悦は父光二と共に伽藍の移転 建立に私財を投じて完成に努力した。
8.ここは京都市左京区東大路2条下にある妙傳寺です。H12.7.17描く
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当山は院号「正法華院」山号を法鏡山と称し文明9年1477年日意上人 により開創される。日意上人は始め天台宗の僧として桑名の妙蓮寺に おり比叡山に登り学頭となられたが疑念をはらす適当な師がおらず悩んで いた身延山11世日朝上人の学誉すこぶる高きを聞き身延山を尋ね日朝上人 と法論すること3昼夜、疑念氷解し日朝上人の弟子となる。 文明9年京都一条に常塔伽藍を建立されるが創建にあたり日朝上人と相計り 宗祖日蓮の御真筆本尊、御真骨を分祀奉安し遠隔の壇信徒の為の便宜を図り 又身延山七面大明神の同木同体の御神体を奉安したことから当山を「西身延」 「関西身延」と称す。日意上人は妙傳寺に23年その後身延山12世の猊座に 就かれ身延山の今日の偉容を確立し”朝、意、伝”の宗門中興の3師 と称せられる。現在地は六世日恵上人の代に移る。
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