1.ここは近江八幡の瑞龍寺です。H13年12.22描く日蓮宗唯一の門跡寺院です。門跡寺院とは皇族や華族が出家して住んでいる寺、 や住職のことを言います。門とは天皇家をさしています 開山は関白豊臣秀次公の生母瑞龍院日秀尼公で、後陽成天皇の代に勅願寺 となり後継者は皇族、華族からでて代々尼官が住持する慣わしであった。 現在の八幡山へ移築されたのは昭和36年(1961年)のことである。 八幡山は秀次公が居城を築いたところで開山日秀尼公の寺が移築されたのは 深い親子の因縁と言われる。 日秀尼公は、俗名羽柴智の方、秀吉の姉である。秀次公は淀君一派の 陰謀により高野山で割腹ひごうの最期を遂げた(28歳)。 智の方は我が子の菩提を弔う為に出家嵯峨野の庵室で読経、修行 の日々を過ごされた、このことが後陽成天皇の御叡聞に達し京都村雲の地に 寺号瑞龍寺を賜り寺格を黒御所、紫衣勅許、菊花御紋拝領、 寺領1千石と定められた。当寺が村雲御所と呼ばれる所以である。 現門跡13世日凰尼公は小笠原伯爵の5女先代日英尼公の義妹であり 活動する宗教家である。
2.ここは堺の妙国寺です。H13.12.23.描く当山は1562年当時四国の阿波、讃岐より兵を起こし畿内を支配していた 三好家4兄弟の一人三好豊前守が大蘇鉄を含む東西3丁南北5丁の土地を 開山となった日珖上人に寄進し、上人の父で堺の豪商油屋常信、兄常祐が協力 しここに伽藍を建立寄進した。妙国は珖上人の師の先師”妙国院日祝上人” よりいただいたものである。建物は大阪夏の陣では豊臣がたの将大野道大は 徳川家康妙国寺に在りと聞き当山に乱入し火を放った。 又、第二次大戦の空襲により殆ど焼失した。 現在の姿にはS48年面目一新再建された。 又当山の蘇鉄は樹齢千百余年と称され神秘的な伝説を残し、妙国寺の大蘇鉄 と全国に知られている。 又土佐藩士の切腹事件(フランス水兵との銃撃戦)のあった場所としても 知られている。
5.ここは和歌山の報恩寺です。H13.12.23描く当山の沿革は慶長14年1609年に要行院日忠上人が建立したのがはじまりですが 1666年紀州徳川家藩租徳川頼宣公夫人瑶林院(加藤清正の5女八十姫)のご逝去 に伴い紀州藩2租光貞公が慈母追善の為、要行寺を報恩寺と改め1ヶ所本山、永世無本寺 として整備し日順上人を招請し当山導師とされました。爾来当山は末寺六ケ寺を有し 代々藩主御正室の菩提寺として紀州家の外護のもとに景観を整えてきており和歌山城 唯一の武士寺として親しまれてきている。しかし、S20年、S36年と火災にみまわれ ようやくH5年より再建の途についている。
1.ここは広島の山根町にある国前寺です。H14年8.4描く日蓮上人の御遺命により帝都弘通の洪業を果たされた日像上人は次の 宿願を果たすべく広島に錫をすすめた。広島來錫の目的は日蓮上人の 大曼陀羅を厳島神社に授与するためであった。宮島は当地では七浦様 と呼ばれ七面天女と共に陰陽2体の法華経守護の神である。 しかし宮島は渡海するにも荒海で行けづ暫らく暁忍上人の庵にて 旅宿をとった。暁忍上人は天台宗の僧であったが仏法に疑義を抱いていた。 像師の來錫を機に不審の数々を解く事が出来、その門弟となり、改宗した。 暁忍寺と山号を像師より賜った。当山の開祖は日像上人2租暁忍上人 と続くが明暦2年1656年広島2代藩主浅野光晟公並びに夫人 自昌院(加賀100万石の姫)の帰依により菩提寺にさだめられ、寺領200石 を拝領された七常伽藍も完備して国前寺と改称された。
2.ここは大阪府の能勢の真如寺です。H14.8.6.描く当寺は無漏山と号し関西身延とも称せられ近畿の霊場として古来より 著名であった。もともとは、真言宗の寺で真光寺と称されたが、能勢家23代4 頼次朝臣が深く法華経に帰依され京都の本満寺貫主の日乾上人を招いて法門 聴綬し領内をあげて本化に帰し日蓮宗に改宗し現寺号に改められる。 ちなみに妙見様は北斗星辰を神格化したものと言われ、鎮宅霊符神 として崇拝されたものである。
5.ここは岡山市高松の妙教寺(最上稲荷さま)です。H14.8.5描く竜王山又は稲荷山と号し延暦年間に報恩大師摩訶聖人が創建された。 このいわれは天平勝宝4年(752年)考謙天皇の病気平癒を発願した聖人が 祈祷の法をしたところ満願の210日に最上位経王大菩薩(最上尊)の降臨 を見、帝の病はたちどころに平癒した。その恩に報いる為「報恩大師」という 大師号を授け又法勲を嘉賞して摩可聖人の称号をおくったとされる。 この最上尊はのち稲荷信仰として発展し、いまでは伏見、豊川と併せ3大稲荷 の1つとして数えられる。全国に信者おおい。その後1601年(慶長6年) 池上本門寺16世日樹上人の弟子日円上人の当地を巡錫の折り荒廃した当山の 旧跡復興を思い立ち領内の有力者花房家の外護を得て堂宇を再建し、 稲荷山妙教寺として光輝有る再出発をすることになった
5.ここは佐賀県小城の光勝寺です。H14.10.12描く松尾山光勝寺は花園天皇の文保元年(1317)下総の国千葉胤貞公が 征夷大将軍の代官として九州探題に赴任するにあたり四方悉く静穏に なるよう祈請をこめられ見事果たされたため寺を創立され、中山法華経寺 の3世日祐上人を屈請して鎮西発軫の根本道場としたものである。 西日本では稀に見る一大法城というべく日蓮宗九州唯一の本山の名 に恥じないものがある。13代までは中山の住職がかねていたが14代からは 専任を置くようになり初代日親上人は激しい布教活動を展開し九州一円に 教義を拡張された.そして鍋釜の迫害,拷問を甘受した話は有名である。
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