京都エリア

今回は京都エリアです。このエリアには8の本山、大本山があります。

1.ここは京都市左京区仁王門通りにある頂命寺(ちょうみょうじ)です。H12.7.17描く

聞法山(もんぽうざん)頂命寺は京都21箇本山の1つとして、日蓮宗の繁栄を 担い続けた由緒寺院の1つである。下総の中山法華経寺の日祝上人が上洛布教し 1473年土佐の守護細川勝益公の帰依によって洛中に1474年に開創された。 4丁4方の広大な伽藍であった。その後足利将軍家や公家、京都町衆の外護 をうけておおいに発展したが、天正7年(1579年)織田信長の安土宗論により 、一時衰退するが秀吉の時代にご朱印21石を寄進される。



2.ここは京都市上京区七本松通りの立本寺です。H12年7.17描く

具足山立本寺は日蓮宗8本山の1つ、京都法華系本山16ケ寺の内妙顕、妙覚、 立本寺を三具足山と言いいずれも龍華院樹院日像聖人により開山される。 京都弘通の命を受けた日像上人はいくども都を追放されながら民衆救済の 使命に燃え四条の櫛笥に1341年妙顕寺を建立するが叡山僧兵によって破却 された。1393年日実上人がその地に再建本寺をたてると言う意味をこめて 立本寺と改名した。本堂、祖師堂、鬼子母神堂、鐘楼、方丈、客殿、庫裏の 建物は江戸を代表する寺院建築として京都市の文化財指定を受ける。



3. ここは京都東山区山科御陵にある大本山本圀寺です。H12.7.16描く

本圀寺は宗祖日蓮が住んでいた霊場であります。日蓮聖人は32歳建長5年 (1253年)立教開宗し鎌倉にて”南無妙法蓮華経”をひろめましたが 鎌倉の松葉ケ谷に法華堂を開き22年にわたる住まれ布教の根本道場 としました。伊豆の法難後弘長3年(1263年)ここを大光山本国土妙寺と 命名されました。大聖人入滅後京都には室町幕府ができ、足利尊氏は 本国寺を京都に移すよう懇願、光厳天皇の勅諚により1345年貞和元年に 4祖日静上人の時に京都六条に東西2町南北6町に亘る広大な永代寺領を 賜り移り栄えました。当山は宗祖を初祖朗尊を2世仰師を3世静師を4世とする。 代々勅願道場として地位が高く西の祖山と呼ばれている。 農地開放の余波を受けて山門の荒廃極に達した後S45年山科に移転した。 同地は琵琶湖よりの引き水、東山を背にし山紫水明の優雅な寂境で 風致地区に指定されている。 本圀寺の国の1字は水戸光圀公より賜ることによるものです。



4.ここは京都市上京区新町通りの妙覚寺です。H12.7.17描く

具足山妙覚寺は大本山妙顕寺、立本寺と共に3具足山という。北龍華 と称し京都日蓮宗門下16本山の1つである。開山日像聖人は宗祖日蓮 聖人御入滅の折り、帝都の宗旨弘通の遺命を受けたが、苦難の末 後醍醐天皇より龍華院妙顕寺を賜り帝都開教の御遺命を達せられた。 その後偉材が跡をついだが後住の選定に端をはっし6祖日実聖人を定め 1378年妙顕寺より分離、開創したのが当山である。19世日饒上人は 斎藤道三の子息の縁より織田信長の京都での宿ともなる。本能寺の 変の時は嫡子織田信忠がここに宿泊、応戦自刃した。当寺は豊臣秀吉 の洛中整理令により現在地に移転され1584年再建された。21世日奥上人 の不受不施の正義は幕府にうけいれられづ不遇が続いた。1788年は天明 の大火にあうがその後歴代の貫主の丹精より今日の寺観が整えられる。



5.ここは京都市上京区寺の内通りにある大本山妙顕寺です。H12.8.17描く

四海唱導妙顕寺は山号を具足山又の名を竜華といい日蓮の孫弟子日像聖人 が1321年創建された関西法華宗団の根本をなす由緒寺院である。 開山日像上人は甲斐源氏の名門平賀忠治を父に下総平賀(現松戸市、本土寺) に生誕され幼名”万寿麿”となずけられ6歳で身延に登り宗祖に見込まれ 経一丸と改名5年間身近に宗祖の教えを受け御入滅の地、池上ではなみいる 信者、弟子の中より枕元に呼ばれ都へのお題目の弘通と天子に妙法をお勧め するとの大役を托される。直ちに日像と名を改め日朗を師に行学に励む事12年 宗祖の13回忌の年を京都開教と決め厳しい修行を続け1294年宗祖の立教開宗 の日(4.28)の翌日御所の正門に立ち、昇る旭の光の中にお題目を唱え都の 開教を誓いました年25歳。しかし教線の拡張に伴い他宗派から誹謗を受け都を 追われること3度に及んだ。1321年3度目の追放を赦され帰京後後醍醐天皇の 要旨を仰ぎ洛内に寺地を賜り妙顕寺がようやく創立された。



6.ここは京都市上京区寺町今出川の本満寺です。H12.7.17.描く

人皇101代後小松天皇の御宇、応永17年(1410年)の創立で開山は 王洞院日秀上人で近衛関白左大臣道嗣の嫡子ですが本国寺5世 日伝上人について出家され朝廷より敷地3万坪を与えられ広宣流布 山本願満寺と号した。現山号はその略称である。本満寺の歴世の なかでは12世日重13世日乾14世日遠はそれぞれあいついで身延山 の20、21、22世の法主となり祖山中興の3祖として名を遺し、 江戸初期の宗門の教学を振興した。



7.ここは京都市上京区小川通り寺のうちの本法寺です。H12.7.17描く

叡昌山本法寺は久遠成院日親上人の開創で1436年に京都東洞院綾小路に 建立される。日親上人は時の将軍足利義政に「立正治国論」を献じ平和 の招来を直言したがこれが将軍の忌憚に触れ503日獄舎に投ぜられる 鍋を焼いて頭に冠せるという残虐極まる拷問を受ける。天正15年1587年 豊臣秀吉の帰依を受け現在の地を与えられ今日の本法寺の基礎が成る。 天明8年(1788年)の大火により経蔵と宝庫を残し多くの堂舎を失った。 又本法寺は本阿弥清信が日親上人と獄舎を共にするうち上人に帰依した ことから本阿弥家と深い関係があり本阿弥光悦は父光二と共に伽藍の移転 建立に私財を投じて完成に努力した。



8.ここは京都市左京区東大路2条下にある妙傳寺です。H12.7.17描く

当山は院号「正法華院」山号を法鏡山と称し文明9年1477年日意上人 により開創される。日意上人は始め天台宗の僧として桑名の妙蓮寺に おり比叡山に登り学頭となられたが疑念をはらす適当な師がおらず悩んで いた身延山11世日朝上人の学誉すこぶる高きを聞き身延山を尋ね日朝上人 と法論すること3昼夜、疑念氷解し日朝上人の弟子となる。 文明9年京都一条に常塔伽藍を建立されるが創建にあたり日朝上人と相計り 宗祖日蓮の御真筆本尊、御真骨を分祀奉安し遠隔の壇信徒の為の便宜を図り 又身延山七面大明神の同木同体の御神体を奉安したことから当山を「西身延」 「関西身延」と称す。日意上人は妙傳寺に23年その後身延山12世の猊座に 就かれ身延山の今日の偉容を確立し”朝、意、伝”の宗門中興の3師 と称せられる。現在地は六世日恵上人の代に移る。



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