山梨、静岡エリア

今回は山梨、静岡エリアです。このエリアには15の本山、大本山があります。

1.ここは山梨県身延町の日蓮宗総本山久遠寺です。

H10.8.5描きました 

 32歳で開宗宣言された日蓮聖人は以来鎌倉、伊豆、佐渡の 御流罪等苦心の20年を送られ佐渡帰還後第3回目の諌言を行うが受け入れられず「三度諌めても容れれずば去る」との 古来の聖賢にならい甲斐の国波木井郷の領主南部実長の請待を受けて草深い身延に入山される。聖人53歳のこの時を 身延山の開創紀元とする。ここでは末法万年の弘教 に備えて門下を育成することを主眼とされた。在山は9年に過ぎなかったがこの間門下中へ与えた御書は遺文中最も多い



2. ここは、山梨県身延町大野の本遠寺(ほんのんじ)です。H10.8.4描く

徳川家康は念仏を信じていたので日蓮宗の不受不施の主張は 相容れられず念仏無間の文は経釈にない誓状を提出させようとした が身延の日遠上人は固く拒み、また家康の処置を憤慨し浄土宗を を相手に禁断の法論を上申。家康は怒り磔の刑にしょせんとした. 然るに側室養珠院お万の方は深く上人に帰依していた為身を捨てて 法難に殉じようとした。流石の家康も固い決意の前に上人を放免になり 身延へ帰山するよう仰せ付けたが上人は深く考える所あり大野 に小庵を構え安住の地と定め遺言により当山に葬られ、 お万様寄進の「開山堂廟」で眠りついている。 お万様は七面山女人参拝の禁を解き、77歳にてここに葬られる。



3. ここは富士宮市北山の本門寺です。H11.5.13描く

1298年宗祖日蓮聖人六上足の一人日興上人の開創した寺で、元本門宗の祖山 で現在は日蓮宗の大本山に列している。日興上人は宗祖の入滅後身延山に あって祖廟の輪番奉仕をしておられたが1288年七回忌の頃地頭波木井実長公 と不仲になり身延を離山した。その翌年南条時光の屈請により大石が原に 大石寺を草創した。2年を過ごすが1292年現在地に法座を移し1294年に本堂 御影堂、垂亦堂の創建をみた。「法華本門寺根源」と称し爾来36年上人は 門下の育成に努めると共に四方に伝導して本化 の教風を昂揚し88歳にて化を霊山に移す。



4.ここは富士宮市小泉の久遠寺です。H11年5月13日描く

1334年日蓮の法孫日郷上人により開かれた。開基檀越は上野の南条時光の子 時綱であるが地元の豪族の協力を得て当山の基を築いた。当地は日興上人が 富士山麓の雄大な景観に着眼せられ大聖人在世中より着々と開教に努められ ており既に小泉法華講ができていた。開山の日郷上人は越後の土岐源氏の嫡流 太田持氏の5男として生まれ仏門に入る。日目上人の大石寺、日興上人の本門寺 の間を常に行き来し勉学に励まれた。そして大石寺の法灯相続を許されたが、 同門の日道師が真っ向から反対し係争が長く続いた。関係者が皆故人となると 道師が年長で支配力が強かった為大勢は道師に傾いた。郷師はこの頃日興、日目 両師が郷師に委嘱した本尊と御影尊を小泉に遷座しもと法華寺といった寺 を久遠寺に改称し久遠、本門両山一寺の宗規完全を計り。以後郷師は 房総方面へ布教に旅たった。



5. ここは山梨県増穂町小室の妙法寺です。H10.8.4描く

当山は持統天皇の代、役の行者が創めたもので東33国の山伏の棟梁として 名高い名刹であった。 日蓮が身延に入ってからこの真言の名刹を知り甲斐弘通の地と考えた が小室山の住職恵頂阿闍梨善智法印は山伏数十人を従えて聖人に術比べ を仕掛けた。”大石を虚空に昇る”術くらべ。 善智法印は手も足も出ず心の中から恐れ入り 三拝九拝して弟子となった。しかし心の中では面白くなく後日 毒入れの餅を聖人に差しあげたが聖人は法印の心を見通し 白犬に餅を投げ与えるや否や一声吠えて地に倒れた。しかし 聖人は毒消しの秘妙符を水を汲んで犬の口に流し込んでやると犬は 見る間に息を吹き返した。善地法印は顔色青ざめ宗祖の膝下にうずくまり 衷心から懺悔をされた。その後善地法印は宗祖から秘妙符の相伝を授かり 小室山を法華経の道場に改め直々に徳学山妙法寺と言う山号を賜り 後には阿闍梨日伝として中老僧12人の中に加えられた。



6.ここは伊東の仏現寺です。H10.6.13描く

海光山と号し日蓮上人を開基とし六老僧日昭上人を開山とする。 「立正安国論」を鎌倉幕府に建白したが執権北条氏はこれを容れず 伊豆の国伊東へ配流した。日蓮40歳の時であった。 配流の身の時地頭伊東八郎左衛門祐光の熱病を治したところ 伊東家の重宝の海中出現の立像釈迦仏をお礼として頂いた。 しかし地頭として罪人を屋敷に泊めおけず伊東家の鬼門除けとして建てた びしゃもん堂に日蓮をいれたがこの跡地が海光山仏現寺であり 、ここで修行すること3年赦免状がでて鎌倉に帰る。



7. ここは静岡市池田にある本覚寺です。H12.5.3描く

当山は延慶元年(1308年)9月13日、中老僧日位上人の開創したものである。 日蓮上人の7回忌をおえて1288年岩渕の中之郷に小庵を結んで法華弘通の 道場となした(32歳の時)。この庵室が本覚寺の前身となっつた。そして 上人51歳のとき、時の領主から有度山の麓の池田の地を譲り受けて 当山を建てた。ここに居ること12年この間に村松の海上寺を開いて 教線を東に伸ばした後、法弟日賢上人に譲り池田に帰り62歳で入寂した。 当山は宗門近代の高僧杉田日布上人(石橋湛山師の父)が明治27年~大正 13年迄の30年住職として就かれ後身延山法主になった。 またこの地は静岡市5号風致地区の指定を受け老樹繁茂し眼下に市外の眺望 を収め四時の風光極めて明媚、境内に樹齢800年の樟木2本が枝を広げている。



8. ここは富士市岩本の実相寺です。H11.5.13描く

当山の縁由は1145年鳥羽法皇が比叡山横川の智印法印に命じて建立された寺 で言わば勅願の古刹であった。日蓮聖人は鎌倉の地にあって開教まもない 伝導に従事されていたが日増しに悪化していく社会環境を憂いさらに釈尊の 真意を確かめようとして当山の経蔵に入りいる事2年「立正安国論」の構想 をねっつた。この頃当山の学頭であった。智海法印は比叡山横川の法友で あったことから聖人に好意をよせていたがこの「立正安国論」構想に傾倒し 師弟の礼をとって日源の号を賜わった。しかし智海法印の改宗と岩本全山の 転宗に反対した学僧は現在の富士川町に大挙移住し現在の「等覚寺」に遷座し た。49村の名が残った(49院の所在地)。ここでは日源上人に反対する強硬派 が跡たえなかったが幕府は逆に49院を閉鎖した。



9.ここは、三島市玉沢の妙法華寺です。H10.10.4描く

1284年越後の風間信昭公によって鎌倉の浜にあった日昭上人の庵室を 寺として献じたのが起源でありよって当山は六老僧日昭尊者を開山と仰ぐ。 玉沢への移転は15代日産上人が幕府に願い出て2代将軍秀忠より朱印地 として拝領し16代日達17代日亮と3代にわたり大伽藍を建造し1621年移転を完了した しかし1791年火災により焼失した。現在の伽藍は41代日桓上人の功績が大きい。 ここでは14代日包~17代日亮までは中興とよばれる。



10.ここは磐田市見附の玄妙寺です.H10.10月描く

玄妙寺は、1385年室町時代日什上人によって開創された寺である。日什 上人は19歳で出家し比叡山に登り横川の慈遍僧正のもとに入室し 名前を玄妙と改めた玄妙寺の名はここに由来する。 38歳の時叡山3000の学頭に推されその名声は全山に聞こえた。 66歳のある日ふとした機縁で日蓮上人の”開目抄””如説修行”を読み 多年の疑問を解決され心の暗雲が晴れたそして日蓮に帰依することを誓い 名を日什と改めた。現在の玄妙寺は境内狭くみるべき建造物はなく 本山と称するには貧弱であるが日什大正師直建の最初の寺であり什門 3本山の一つであることより本山と称す。 遠州鈴が森の刑場跡が近くにあり当山が毎年春に供養を行っている。



11. ここは、静岡県伊豆韮山町の本立寺(ほんりゅうじ)です。H11.11.20描く

日蓮大聖人伊東の浦へ御法難の翌1261年江川家十六代当主江川太郎 左衛門義久公の懇請に応じ当地韮山へ遊化された。義久公はじめ村人達も 悉く信伏随従す。義久公の子英友公は遺命により剃髪し本立院と号し邸内 に大乗庵を建立した。その後1506年江川家24代当主英盛公が邸内にあった 大乗庵を当地に移し本立寺を建立す。のち宗門の学匠として知られる日澄 上人韮山に布教せる秋、経塚の霊蹟を参拝大堂を建立し日法上人手ぼりの 高祖尊像を奉安し日澄上人により開山の法式を挙げ当国中央の根本法華道場 として大成山本立寺と称し宗門本山の礎を長くこの所にとどめる。江川邸の 旧跡とともに参拝する者日々多く永く法灯を今に伝える。



12. ここは伊豆の柳瀬の実成寺(じつじょうじ)ですH11.11.21描く

本山は興統富士門流に属し東光山と称して本門七本山のひとつにかぞえらて 来た名刹。当山は1299年日興尊師の経講義の際、聴聞をおろそかにしたとして 破門された日尊上人が御勘気を解くべく始めた諸国遍歴の第一歩として正安 3年1301年4月に建立された寺であり言わば上人の東国弘教初転法輪の道場たる 由緒ある寺である。その諸国遍歴のたびは十有二年奥州津軽から鎮西に及び 幾百千里に及び新寺建立は36か寺に及んだという。そして以来42世を数えている。 其の奉祀する所の宗祖御尊像は上人が12年間肌身はなさず給仕し給う霊像にて 人呼んで「笈の御影」と称し奉る。



13.ここは静岡県浜名郡湖西町吉美の妙立寺です。H12.5.3描く 

当山は至徳3年1386年日什上人が土地の豪族佐原常慶及び内藤金平 両氏の外護によって開基された霊場である。山号を延兼山と称し京都の 「妙満寺」を総本山とする所謂妙満寺派に属する別格本山であり、S16年 に日蓮宗の門下各派が合同しため身延山を総本山とする日蓮宗に所属 してその一本山となった。



14. ここは清水市村松の海長寺です。H12.5.3描く

当山は1120年前平安朝文徳天皇の852年に創設された天台宗の古刹峨岳寺 としょうしたものが前身である。がその270年後鎌倉時代日位上人が この地を弘教のおり寺主、慈証尊者と法義問答し帰伏させた。これより 当山は一山を挙げて本化門下となり慈証は日受と法号を改め日位尊者を開基と 仰ぎ昼夜聴講、待座した。



15.ここは静岡市沓谷の蓮永寺です。H12.5.3描く。

当山はもと駿州松野村にあったもので6老僧日持上人がその開山である。 日持上人が中国大陸の布教に出立されてから無住同様の寺となり荒廃した。 徳川家康の側室お万の方はこれを嘆き家康に請うて元和元年 (1615年)駿府城の東北の鎮護の道場としてこの地を移し再興した。 これには身延山21世日乾上人の勧めがあったと言われている。 尚この寺には勝安房代々の墓、佐久間象山の室の墓もある。



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