1.ここは仙台市の孝勝寺です。H13.8.6描く当山は光明山と号し宗祖日蓮上人の入滅後まもない1295年 その直弟子である日門上人を開山として創建された東北唯一の 日蓮宗本山である。仙台藩主伊達政宗公は壮年武将時代この寺に 数度出陣のたびに戦勝を祈願したしたところ四辺の強敵を下しては 凱旋したので初めの寺号大仙寺を改め全勝寺とした。2代忠宗公は 徳川秀忠の養女の振姫を夫人としてむかえる。夫人は53歳で他界 するが厚くこの寺に帰依した。その法名は孝勝院であった。 3代藩主綱宗は寺号を再び改め孝勝寺と称し1周忌には多大な 永大寄付をされ雄山大刹としての形態を具備した。振姫の 法華経信仰の感化は大きくそのなかから先代萩の政岡に(伊達お家騒動) 擬せられる4代綱村公の生母三沢初子のような熱烈な信仰家を産んだ。 宝永7年(1710)日潮上人が23世の法灯を継ぐや内外の教化に努め 「本化別頭仏租統記」39巻を著し、その名声は奥羽2州にたかまり伊達 南部藩に末寺多数を創建した。S35年一狂女の放火により大寺院はことごとく 焼失したがそれ以来復興に努め往年の威観を回復しつつある。尚当山には 寺宝として宗祖のご遺骨が奉安されている。
2.ここは会津の妙国寺です。H14.5.3描く当寺は顕本法華宗の開祖日什上人の誕生の地であると共に入滅の地でもある。 元中9年(1392年)日什師が遷化されてから後その高弟にあたる日仁上人に依って 開創された寺である。日什師は68歳の時天台宗から日蓮宗に改宗し名前を当時の 玄妙から日什に変えました。その後千葉県真間山弘法寺が転宗の地となり以後帝都 を何回も往来し布教活動し多くの足跡を残され建立した寺は500を越える。 鎌倉の本興寺、見付の玄妙寺、遠州吉見の妙立寺、は日什師によるものです。 京都六条の庵室は後、妙満寺となり妙満寺派の道場として明治31年11月”顕本法華宗” の認可を得た後の中心地となる。 又ここは明治戊辰の役で会津城が落ちてから藩主松平容保がこの寺で謹慎し、白虎隊 士19名仮埋葬した地でもあり什師の霊廟を守ってきた東北の数少ない本山です。
3.ここは栃木県佐野市の妙顕寺です.H10.8.22描 。H12.5.3描く。中老僧天目上人の開創した寺である。天目師は日向上人に師事され。 各地を弘宣され下野奈良淵村では唐沢城主の佐野家が帰依し天目師を屈請し 一宇創し山を開本と称し寺を”妙顕”と号す。1294年頃と言われる。 1574年には火災に遭い全山一時廃塵と化す。 1794年には再び火災の難菅中全て焼失、 現在は当時の100分の一に及ばずとなったが北関東唯一の法輪。
4. ここは茨城県常陸太田市の久昌寺です。H11.4.24描当山は徳川御三家の1つ水戸家第2代俗にいう天下の副将軍水戸黄門光圀公 の創建によるものである。 徳川家康と側室養珠院お満の方とは2人の御子がありそのうちの1人 弟の頼房と室靖定夫人(久昌院久子)との間に生まれたのが光圀である。 母の影響で早くから法華経に親しみ日蓮上人の教風を仰ぎ名君の誉れを高くした。 その母が逝去されるやその追善の為一寺建立の悲願をたて5年の歳月 をかけ1677年に久慈郡稲木に大殿堂を建立し母の創った経王寺をここに移し 亡き母の法院に因んで靖定山久昌寺と称す。 明治3年現在地に移る。尚小湊誕生寺84世石川日命貫首は前住職である。
1.ここは佐渡の新穂村塚原の根本寺です。H11.8.2描く 塚原山と号し宗門大本山のうちの1つであり宗祖日蓮が 佐渡流罪の折り1271年11月~翌4月半ばまで謫居された 塚原三味堂の旧跡である。 当山の草創はこの後280年後京都妙覚寺門下の日成上人が 諸国に浄資を募り1552年に祖師堂を創建した事より始まる。 その後越後の太守上杉景勝が佐渡を領有し家老直江山城守 の力添えもあり一山の基礎を固める事ができた。 ここは宗門の歴史のなかでは、「順徳天皇の侍臣遠藤為盛は念仏 の信者であり阿仏坊と名乗っていたが宗祖と法論を戦わせ説き伏せられる。 それ以降は阿仏坊は妻千日尼と共に日蓮に帰依し、毎日の給仕で 日蓮を助け丈余に積もる厳しい雪中、三味堂で新しい年を迎えた。 そして2月半ば生涯における当身の大事というべき”開目抄”を ここで撰述した」と言う由緒ある場所です。 ”我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん” とはこの御書に誌された有名な三大誓願である。
2. ここは佐渡の佐和田町の妙照寺です。H11.8.3描く由緒は宗祖は佐渡配流後半年の間塚原の三昧堂に起伏しておられたが 諸宗折伏の弘教を片時も緩めなかったため近隣の僧達は島民と語らい 日蓮を亡き者にせんと殺気だった為領主は僻遠の地一の谷の近藤清久 のもとに身柄を預ける事にした。彼もまた念仏の信者であったが聖人の 人格に接し役目はともかく漸く宗祖に心をよせる信仰者に変って行った。 そして邸内の小高い丘に一草庵を造り招き入れ自らの念持仏たる”阿弥陀仏” の像を献じた。この草庵は”法華堂”と称した。この堂の開堂供養を兼ね 佐渡で初めての盂蘭盆会供養の法要を施されたこの事例が慣しとなり、 各家の葬儀の際に併せて施餓鬼会を施行する習慣が出来た。 さてこの寺の沿革は宗祖の御赦免状を持って弟子の日朗上人が佐渡に到着 される事により宗祖はこの草庵を弟子の日静上人に付嘱し静師を在島弘道 の導師と定めた。静師は清久公の一族にて学乗房と称した。清久公の子 信重は中興入道(法名日正)といわれ身延へ登詣した時宗祖より妙法華山 妙照寺という山寺号を賜わった。
3.ここは新潟県三島郡和島村村田の妙法寺です。H11.8.4描くここは1307年六老僧第一の嫡弟大成弁阿闍梨日昭上人により創立 された寺であり開基檀越は当時の信越両国の太守風間信昭公であった。 信昭公は鎌倉幕府に勤務中日昭尊者の教化をうけて入信した。しかるに 北越の地は辺ぴにて妙法の潤化得難きを念慮し昭師に開教道場の設立を 懇望していた。よって昭師の開創した名瀬の妙法寺を信昭公の出生地たる 村田にて日昭上人を開山となし北越弘教の根本道場とすることを約したのが 法王山妙法寺の源である。 これにより信昭公の御舎弟が得度され二祖のに日成上人さらに実子が三祖 の日運上人となり法城の基盤を確立した。 元は同村の治暦寺の辺りにあり20代頃迄の墓碑と信昭公の墓所はそこにある。 ここは信昭公の舎弟の村岡三郎の居城である村岡城址であることから33世の 日称上人の頃移築されたといわれる。
4.ここは佐渡の妙宣寺です。H11.8.3描く開山は遠藤為盛と称し承久の乱によって佐渡へ配流された順徳上皇に 供奉した北面の武士であり念仏の熱心な信者であったことから阿仏房 と呼ばれていた。聖人の正論に帰伏して法華経の篤信者となってから 日々の給仕奉公は聖人の離島まで絶える事はなかった。 阿仏房は聖人が身延へ入山されてからも老いの身を厭わず遥々三度も 登詣され聖人より”日得”という法号を授与された。そして阿仏房日得 上人の子は父母の志をついで法華経の信者となり其の住まいを寺となし 当山の基を開いた。 ここには保元、平治の乱を契機に対立した武士と公家の政争の犠牲者 日野資朝の遺跡もある。又境内には日光東照宮を模した県下唯一の 五重塔があり、相川町の大工中川金蔵の手による重要文化財である。
5. ここは羽咋市の滝谷にある金栄山妙成寺です。H13.3.14描くここは北陸における本山である。 永仁2年(1294)宗祖日蓮より遺命をうけた日像上人は妙法を京へ広める ため佐渡より都上りの途中、船中で能登石動山天平寺座首満蔵法印(後日乗上人) を教化改宗し、一寺を建立したのが当山のはじまりです。 1582年天正10年当山11世日充上人の代に前田利家公が能登巡視の折り当寺を 祈願所と定めた。利家公の側室寿福院は法華経に厚く帰依し自らの菩提所と した。1605年寿福院の子、三代利常は当山に庇護の手をのべ本堂、祖師堂 五重塔を造立しその後前田家5代で今日の山様の隆盛を築いた。 建築物は前田家御用大工坂上又三郎親子3代にわたるもので 重要文化財10棟を越え創建以来1度も火災にあわず現在に伝えている。
☆一覧へ