| なんの変哲も無い、晴れた日の午後だった。 俺はいつものように書斎のイスに背をもたれ、とある小説を読みふけっていた。 「ご主人様、コーヒーここに置いときますね。」 「ん?ああ・・・」 メイドのユカが話しかけ、本から目を離さずに俺は答える。 コトリと、漆塗りの書斎机にカップを置く音が聞こえた。 「それじゃ、お洗濯もの片づけにいきますから。」 ユカは俺に一言断ると、そのまま静かに部屋から去っていった。 その間、俺は視線を動かさずに本を読み続けていた。 いや、読んでいたのはさっきまでだ。 今はただある一点をじっと見つめている。 普通の奴にとっては何てことのないただの一文だろう。 だが、それは俺にとってやけに心に絡まる一文だった。 『二人の現在、そして将来を・・・』 現在と将来、か・・・・今の生活が実に中途半端で 不安定なものだというのは、俺自身が一番良く判っている。 郊外に建てられた屋敷から一歩も出ず、仕事をしないまま本を読むだけの隠居生活。 金銭的な問題さえ無ければ一生このままの生活でいるつもりだったが 生活の為の貯えはユカの借金を肩代わりし、当初の考えよりかなり目減りしていた。 今のままでは十数年もすれば家財などを売って暮らすタケノコ生活になるだろう。 何もせずに暮らす今の日々を捨て、社会的な生活に戻る覚悟を 後々に伸ばしているのは判っている。 だが、また他人との関わり合いながら過ごす日常が、 人づき合いだらけの生活が今の自分にできるのだろうか? 人、人、人、どこへ行っても人だらけの世界。 他人の心を覗かずにいられない性分の俺にとって 醜い感情が渦巻く人だらけの社会は、悪臭漂う養豚場にも等しい。 ギリギリと胃袋がきしみ、吐き気が止まらないのだ。 こんな性格と体質のまま社会に出るのは、到底無理に決まっている。 どうして、どうして俺はこうなってしまったんだろう・・・ |
byオゾン
| 第1章 「仮面、思い出、羞恥心」 物心ついた頃、俺にはすでに母親はいなかった。 厳格でいつも無表情の父親に脅え、そのせいからか いつも他人の顔色ばかり気にするようになってしまっていた。 そして気がついた時、周りの人間はいつも『偽り笑顔』という仮面をつけていた。 父親と自分に気に入られようとおべっかをつかう親戚や会社の人間達。 クビを恐れ、当たり障り無い言葉でへつらうメイドや使用人ら。 上流階級暮らしで何不自由無かったと言えば 華やかで聞こえはいいが、その裏は陰惨たるものだ。 『嫌悪』『企み』『妬み』など、どろどろした心の闇を仮面で隠し 綺麗な上っ面で腹を探り合う。首までつかった泥沼のようだった。 見たくないものが見えてしまうのは不幸でしかなかった。 奴らの薄皮一枚向こうにある負の感情を浴びるたび 精神力の弱かった俺は、いつも胃袋がひっくり返るような吐き気がしていた。 パーティなど親戚一同が集まる日は、いつもトイレで吐いていた記憶がある。 吐き気には嫌な思い出しか無い。たった一つを除いて。 俺は、大人になってからすっかり忘れていたある人物。 いつもトイレで俺にハンカチを渡してくれた女性の名前を久々に思い出した。 ◆ まだ小学生だったある日の事。俺は父の書斎部屋に呼ばれた。 もちろんそれは、俺が今腰掛けているこの部屋では無い。 あの頃は、ここはまだ桐ノ宮財閥が所有する別荘の一つにしか過ぎず 昔俺が住んでいた場所は高級住宅街の中でも一際豪華な邸宅だった。 「遅かったな、健一郎。」 「・・・すみません、父さん。」 トイレで先に吐いていたのが遅れた理由だったが、言い訳はしない。 そんな事を父親に言っても意味が無く、ただみっともないだけだというのは 小さいうちから良く判っていた。 「これからは注意しろ。」 威圧感に空気が重い。顔色一つ変えず、一言注告するだけの父親。 他の人間と同じく、彼も仮面で感情を隠しているのは判っていたが なぜかこの父だけはどうしてもその裏が暴けなかったのを覚えている。 その日もいつもと同じく父親からの威圧感を体中に浴びていた。 緊張に吐き気がしていたが、空っぽの胃袋のおかげで どうにか深海のような重い圧力に耐えられていた。 父が自分を呼んだ理由は、今後から俺専用の世話役、 メイドを一人つける。というものだった。 今までは、この邸宅に住む幾人かのメイドが、代わるがわる俺の世話をしていたのだが これからはそれを専用の一人に任せるようにした。ということらしい。 「はじめまして、健一郎坊ちゃん。」 側に立っていた見知らぬメイド。 彼女の口から初めて聞いた一言がそれだった。 途端に、空気がふっと軽くなるのを感じる。 今と変わらぬ桐ノ宮邸専用のメイド服。 バストとヒップが窮屈そうな濃青の服とスカート。 きゅっとしまった腰で蝶結びしたエプロン姿。 肩にかかるストレートの黒髪がおじぎをした拍子にふわりと揺れていた。 「よろしくお願いしまーす!」 はきはきした声でニコリと微笑んだ彼女の顔は未だに覚えている。 当然だ。何の屈託も警戒心も無いその笑顔は、まるで幼い子供のように無垢で 心を隠す仮面が一切見当たらなかったのだから。 マリィ。彼女は自分をそう呼んでくれと言った。 本名は真理だか真理子だったかもう忘れてしまったが マリィの方がメイドらしくていいから、という彼女の単純な希望で呼び名が決まった。 確かに彼女は単純だった。いや、単純では聞こえが悪いだろう。彼女は純粋だったのだ。 何でも、小さい頃に熱病をわずらったそうで、年は二十歳を少し過ぎているが 知恵はお前と同じ小学生程度だ。と、父は彼女の説明をした。 なるほど、と俺は理解する。大人であるはずのマリィに仮面が見あたらないのは 心が子供のまま大きくなってしまったからなのだろう。 「何でも申してくださいね、健一郎坊ちゃん。」 俺の部屋で二人きりになった時、彼女は笑顔でそう言った。 目線を合わせるため、膝立ちになってこちらを見上げるマリィ。 やわらかそうなほっぺたに小さな鼻。大きくて少女のように澄んだ瞳。 美しいというより、可愛らしいという表現がマリィには似合う。 あまりに純粋すぎる態度は、逆に意地悪をしてやりたくなる程だった。 「どんな命令でも聞くのか?」 「はい!」 「・・・じゃぁお前、ボクが死ねっていったら死ぬのか?」 小学生そのもののへ理屈だ。思い出しても失笑してしまう。 もちろんその頃、俺は小学生だったのだから当然ではあったが。 だが彼女にそんなへ理屈は通用しなかった。 「あら、健一郎坊ちゃんがそんな命令するはず無いです。」 全てを信じきった微笑みでそう返されてしまい 何も言えなくなった俺は、ぷいとそっぽを向いてしまったのだった。 ◆ とにかく、その日から俺の生活が変わった。 仮面を持たない者が側に居るのがこれほどまでに安らぐのかと驚いた。 母親のいない俺にとって、マリィは初めての母らしい女性だったせいかも知れない。 「坊ちゃんは、どんな果物が好きなんですか?」 「坊ちゃんってば、一人でいるのが好きなんですね。」 「いま、何考えてるんです?」 少々うっとうしかったが、いつも興味深く俺の事を 聞いてくる彼女のおかげで退屈はしなかった。 だが、問題が無い訳でもない。 人懐っこいせいか、意味も無く体を擦りつけて甘えてくるし 真面目なのだが、頭の弱さ故に失敗も多かった。そしてその度に 「申し訳ありません。申し訳ありません。」 と、何度も謝りながら、抱き着いてくるのである。 一緒に風呂に入りたがるのは特に困った点だった。 小学生とは言え、女性の肉体に反応してしまうのは当然の生理現象だ。 そんな時、俺は彼女の裸を横目でちらちら盗み見ながらも なんとか自分の立ってしまったものを隠そうと懸命になっていた。 「ねぇ坊ちゃん。もしかしてオチンチン、大きくなってます?」 俺の背中を洗いながら耳元でマリィが囁く。 「なっ、なってなんかないっ!」 「うふふ。よかったら私の裸見ます?坊ちゃんにならいいですよ、ほら。」 惜しげもなく彼女はバスタオルの前をひらりと広げ、俺に素肌をさらした。 張りの良い大きな胸にピンク色の乳首が存在を主張し くびれた腰にある小さなへその下には、やや濃い目の草むらがマリィの秘部を覆っていた。 心は子供だったが、彼女の体は明らかに大人の女性だった。 あっけにとられ、思わずじっと見つめてしまった俺だったが、突然我に返る。 「ばっ、馬鹿!隠してろって言っただろ!見せなくっていい!」 性欲を他人にさらすのは、心の奥深くをさらすのに等しい。 自分の性欲を表に出すのが恥ずかしかった俺は、そうやって何度もマリィを怒鳴った。 今となっては懐かしい、広い岩風呂での出来事だった。 そして一緒に風呂に入った後の夜は、必ずベッドの中で悶々としていた。 いつからか、彼女の裸を思い出しながらいつまでも大きくなりっぱなしの モノをこすり、自慰にふけるようになった。 書物の山から知識だけはあったので行為の意味は知っていた。 「マリィ・・・マリィ・・・」 彼女の名前を呟きながら、一心に固い肉棒を擦る。 初めての射精でうっかりトランクスを汚してしまった時のことは あまり思い出したくない過去だ。汚れた下着を洗っている姿を 彼女に見られたのは、生きてきた中で一番の恥辱だった。 俺とマリィの関係はその後もしばらく主人とメイドのまま続いた。 悪ふざけなのか、彼女が胸を押しつけたり下着や裸を見せたりした事が 度々あったが、彼女に性欲をさらけ出すのが恥ずかしかった俺は 全て自慰で処理し、マリィに手を出さなかった。 多分、あの出来事が無ければ彼女との関係はずっとそのままか かなり後になっていただろう。思い出しても胃がきしむ。 俺は記憶の片隅にしまっておいた例の事件を、忌々しい事件を久々に思い出していた。 |