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『心の世界、夜の世界』

BYオゾン

第1章「夜の散歩」

 ここは夜の国、ナイトルーム。

永遠に朝の来ない世界。夜に閉ざされた常闇の世界。

でもあたしは、この夜がけっして絶望の闇ではなく
ご主人様の為の、安らぎの闇だと言う事を知っている。

 今日も窓から見えるやや田舎風の、夜の景色。
時計の針が6時を差す頃、遠くの山々の空に明け方と夕暮れが同時に訪れ
太陽の見えぬまま、また夜が降りていく。毎日がそんなことの繰り返し。

そんな世界の中であたしはこの家のこの部屋、ナイトルームのお留守番をするのがその役目だ。

ご主人様が帰ってくる以外は、時おり誰かの「視線」が部屋を訪れて
ひとしきりあちこち見回した後、また延々とリンクしている部屋のどこかに去っていく。

そんなみんなの「視線」の案内役も、あたしのお仕事の一つでもある。


 今の季節は夏、窓の外から庭の虫の音が聞こえ、遠くの川から蛙の鳴き声が響いている。
星晴れの星たちが瞬き、天頂には現実ではありえない位置に三日月が光々と輝いていた。

「喉・・・渇いちゃったな」
それは、あたしが台所の冷蔵庫を開けて、冷えた牛乳を取り出した時の事だった。
裏庭へと続く勝手口の扉が、少しだけ開いていたのを
あたしはコップに注いだ牛乳をゆっくり飲みながら、何となく見つめていた。

 不意にご主人様の言葉を思い出す。
「勝手に庭に出たらだめだぞ。真の闇に近寄ったら飲まれるからな」
そんな忠告を、頭の片隅に浮かべながら
「真の闇に近寄らなきゃ、いいんだよね」
あたしは庭先で一緒に見た花火を思い出したくて
サンダルを履いてちょっとだけ夏の夜の庭に出てみた。


 リーリーとさえずる虫の音、ひんやりとした涼しい風、湿った草と土の香り、揺らめく夜空の星。
「なんだ。恐いものなんて何もないじゃない・・・」
安心したあたしは、ちょっとだけ庭の散歩を楽しむことにした。

 ここに居ると花火を見た時の事を思い出す。もちろんそれが外に出た目的なんだけど。
ぽーんぽーんと打ち上げられる、しだれ柳やぼたんの花火。
そして終わった後に遊んだ線香花火のか細い瞬き。
ご主人様は打ち上げ花火が好きみたいだったけど、あたしは線香花火の方がいいな。
小さいぶん、一生懸命に輝こうとしてる気がするんだもん。

ほんのつい先日のことを、まるで何年も昔の出来事のように思い出しながら
あたしは、きしみかけた木の長椅子に腰掛け、星空を仰いで何となく流れ星を探していた。


 その時だった。あたしの耳に、何か囁くようなかすれ声が聞こえたような気がした。
「?・・・」
最初は耳の錯覚だと思ったその声も、幾度か繰り返すうちに次第にはっきりと
したものになり、内容を聞き取れる程にまでなってくる。
「・・・けて・・・・・すけてく・・・・たすけて・・くれ・・・」

 どことなくご主人様に似たその声は、庭の外のほんの十数メートル先の
森の暗闇から聞こえてきた。
「ご主人様?」

 あたしは、そう問い掛けながら恐るおそる声のする方に近づいていく。
違うかもしれないけど。もし、ご主人様の身に何かが起きて
あたしを呼んでいるんだとしたら・・・・
 その可能性を否定できず、あたしは庭の柵越しに森を観察してみたのだった。
「たすけて・・・くれ・・・・・た・・・たすけて・・・」
庭より薄暗い闇の中から抑揚の無い声が何度も聞こえてくる。
そして、何かちらちらと赤黒く輝くものが見え隠れしている。

「ご主人様なの? ねえっ!?」
あたしは得体の知れない不安と恐怖に耐え切れず、大声を出してその声に問い掛けてみた。

「ああ、そそ、そうだ。お前の・・・ご主人さまだ。早く・・・・た、助けてくれ・・・」
抑揚のないところ以外は確かにそれはご主人様の声だった。やっぱりそうだったんだ!
森に住む何かに襲われて、何とか逃げて来たんだろうか?
それとも足を滑らせてくじいて歩けなくなってるのかも?
色々な考えが頭に回ったあたしは、不安をかき消すためサンダルをカタカタ鳴らして
ご主人様の元へと急いで駆け寄った。


 それがいけなかった。森の闇に一歩入った途端
その闇が、まるで生き物のように蠢いて大きく広がる。
星や家の灯の光が何も届かなくなり、あたしを真っ暗な闇の中に包んでしまった。

「真の・・・闇!? ご主人様なんて言って、あたしをだましたのね!」
「いいや、ち、違うな。今日から俺が、おお、お前のご主人様だ!」
今まで見えていた赤黒く輝くものが二つ、笑うようにすうっと細くなる。
その時あたしは、それが怪物らしきものの目だと言う事にようやく気がついたのだった。

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