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『心の世界、夜の世界』

byオゾン

第3章「忘れたいの」

 次にあたしが目を覚ましたのは、自分のベッドの上だった。
「大丈夫か?ヤスミ」
ご主人様があたしに優しく声をかける。
あたしは、今さっきの出来事が夢なのか本当なのか判断できずにぼんやりとしていた。

「傷は、痛まないか?」
 あたしはかけられたシーツから自分の手を取り出して、顔の前にもっていった。
手のひらや腕に、細かい引っ掻き傷がついてるのを虚ろな気持ちのまま眺める。
やっぱりあれは本当の事だったんだ。と、あたしはぼんやり考えた。

「薬をつける前に体を洗ったほうがいいな。風呂の用意はしてあるから」
あたしの裸を見ないようにご主人様が後ろを向く。あたしはご主人様に言われるままに
シーツで前を隠しながらお風呂場の方へ向かった。


 暖かいお湯があたしの泥だらけの全身を撫でていく。
シャワーの水滴が泥を流し去り、あたしを綺麗にしていく。
けれど、つけられた傷はそんな事では綺麗にならない。心の傷もそんな事では癒されない。

 内臓まで届いていたかと思われるほどのお腹の傷は
今みると、ただのミミズ腫れ程度のものでしかなくなっていた。
体中についている傷もそうだった。
闇の力が無くなって傷の影響が無くなったのだろうか?
そんなことを考えながら、あたしはシャンプーで髪の中に入った砂を洗い落としていた。

 疑問はまだまだ続く。あの怪物はいったい何だったのだろう?
真の闇?惨夢?どうしてそんなものがこの世界に?
いくら考えても出ない結論。髪をゆすいで泥と砂を落とすように
いっそのこと全部流して忘れてしまいたかった。

その時、ふいにご主人様の声がして、あたしは我に帰る。
「着替えと薬、ここに置いておくよ。それから・・・
 今日の事を考えるのはもうよすんだ。そうした方がいい」
いつものご主人様の優しい声。ときどきあたしをからかったり、意地悪したりするけど
それもあたしにとっては楽しい時間。幸せな時だった。

 脱衣場で腕の傷に薬を塗りながらあたしは考える。
体の汚れはもう落ちた。小さな全身の傷もいつか消えるけど
心の傷はそうはいかない。あたしは一生傷を負ってしまった。
早く忘れたい。消えないまでもいいから、早く忘れてしまいたかった。


 お風呂場を出たあたしは、バスタオル一枚の格好で部屋に戻った。
「な、なんだよ。早く着替えてこいよ。」
あたしの姿にどきっとしたのか、ちょっと声を上ずらせながらご主人様がそっぽをむく。
子供のようなその行動に、あたしはちょっとだけ微笑むと
そのままご主人様に近づいていった。

「あの、背中に薬がうまく塗れないの。お願いできませんか?」
「え? あ、うん。いいけど」
照れくさいのか、少し赤くなったご主人様。
「ふふっ。じゃ、お願いします」
あたしは薬を手渡し、ベッドに腰掛けて後ろを向くと、バスタオルを少し下げた。

「案外、小さな傷で良かったな。」
そう声をかけながら、ご主人様はあたしに薬を塗り始めた。
痛くないように、そっと触れる指先をあたしの背中に感じる。
傷に触れられる度にじんわりした感覚が背中におこり、体の傷だけでなく
心の傷までもが癒されるような感じがした。

 「やすみ〜、何なら胸にも俺が塗ってやろうかぁ〜?」
いつもの冗談が始まった。意地悪そうに、そう言うご主人様。
後ろ向きで見えなかったけどニヤニヤ笑う顔が容易に想像できる。
「あ、それじゃお願いしようかなぁ?」
意味深な含み笑いをしながら、あたしはバスタオルを胸より下に降ろすと
片手で胸の先を隠しながらちょっと振り向いた。
「う、じょ、冗談にきまってるだろ!そのくらい自分で塗れよ!」
視線をそらして赤らむご主人様。ほんとうに子供みたいな性格だ。
「・・・・ふふっ、あたしの勝ちぃ」
「ちぇっ」
他愛もない会話があたしの心を安らげていく。

「もうちょっと腰のほうも、塗っとくぞ」
「あ、うん・・・・・・・痛っ!」
「あっ!ご、ごめん。ちょっと引っ掻いちまった」
指先が傷口を引っ掻いた途端、あたしは闇の中の出来事を思い出してしまった。
さっきまで忘れていた色々な疑問が、また心に湧き起こる。
「忘れろ」と言われたけど、どうしても我慢できなかった。
あたしは闇の中の怪物について、ご主人様にいくつか質問をする。

 でも、ご主人様はその質問には答えてくれず、いくら聞いてもはぐらかしたり
忘れろとあしらうばかりで、何も答えてはくれなかった。
どうして、どうして隠そうとするんだろう? どうしてそんなに言いたくないんだろう?
疑問は不安に移り変わっていく。あたしは半ば感情的になりながらご主人様を問い詰めてしまう。
「ねぇ、なんで?どうして何も教えてくれないのよぉ!」
「いいから、早く忘れるんだ!その方がお前のためなんだから!」
「忘れたいの! 忘れさせて! 早くあたしに忘れさせてよぉ!」
不安、苛立ち、忘れかけていた恐怖・・・
いろんな感情がまたぐるぐるして、あたしの中ではち切れる。
あたしは胸を隠すのも忘れてがばっと振り向くと、ご主人様に抱き着いてしまった。
勢いあまって二人ともベッドに倒れ、あたしはご主人様を押し倒すような形になってしまう。

「今も、目を閉じるとね。さっきの事がすぐ浮かんでくるの。
 ひどい事をされた感触を思い出しちゃうの!
 ねぇ。体中からあの感触を追い払ってよぉ
 でないとあたし、一人で寝られない・・・・・・」

 あたしは心のままにそう言うと、ご主人様に頬をすりよせて抱き着いた。
ご主人様の両腕もあたしの背中にまわり、あたしをぎゅっと抱きしめた。
とくん、とくんと重なった胸から鼓動が聞こえてくる。
とても安らぐ不思議な気分。何もかもゆだねてしまって構わないと思った。

「いいのか?」
「・・・うん」
体をくるりと反転させられ、今度はあたしが仰向けになる。
ご主人様はあたしを、あたしはご主人様を。
お互いに瞳を見つめ合って、その意志を確認する。
「・・・・後悔、するなよ」
「・・・・絶対、しないもん」

ご主人様はにこりと微笑むと、あたしにそっと口付けをしてくれたのだった。

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