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『ひとときの夢』 セイドメイドシリーズその3

byオゾン

第2章 「来客」

 市街地から少し外れた住宅街の更に奥。
なだらかな山の中腹に、広い庭を持つ洋館が一軒あった。
一段高い山林を切り開いた丘に建てられた古い屋敷、桐ノ宮邸。

住人はその堂々とした建物の見かけに比べ、はるかに少ない。
主人健一郎と先代からの老執事。奉公人のユカ
庭師が一人と炊事係のその妻。といった程度である。

後はアルバイト同然の扱いになったメイド達が、週に数回掃除のために通うぐらいで
古い洋館での暮らしは、まるで外界との交流を嫌うように
隔てられているものであった。

そんな屋敷の離れに立っている、図書室と呼ばれる別館。
3階建ての巨大な本館と屋根つきの通路で繋がっている蔵書倉は
この屋敷の主人、健一郎が好む憩いの場である。

 今日も健一郎は幅広な窓枠に腰掛け、古い恋愛小説を読みふけっていた。
ゆるやかな風が、灰色の雲を運び続ける薄曇りの空。
時々、小鳥のさえずりと葉擦れのざわめきが聞こえるだけの静かな午後。

 本を読みつづける主人の側で、彼お気に入りのメイド、ユカが立ったまま
子猫のように彼にすり寄り、その存在を洋服越しの背中に感じていた。

彼女以外のメイドは健一郎を慕うどころか、やや恐怖を感じている。
むろん肉体関係など一切無い。
この光景は、健一郎とユカの間柄ならではのものだった。

すぐ側に自分の主人がいるせいか、眠たいような
気だるいような安心感を感じるユカ。
なんとなくぽぅっとしていた彼女は、首を主人の方へ傾けると
頭の後ろでこつんと健一郎の肩へもたれかかった。

「なぁユカ・・・」
「あっ、はい。何でしょう?」
急に呼ばれたせいで、少し驚きながらユカが返事をした。

「今、『キスしたいな』って思ってたろ?」
「え?・・・や、やだ、そんなこと!」
知らずしらずのうちに、何気なく考えていたことを
ピタリと当てられ、思わずユカは否定した。
「・・・・・・・・・」
 その答えに健一郎は何も言わず、黙ったまま視線を本に向けていた。
彼の態度に、ユカはやっと重要なことを思い出す。
そうだった。自分の主人は他人の考えを察知するのが得意だったのだ。
「も、申し訳ありません。その・・・・キスしたいなって、思ってました」

ユカの自白に、ようやく健一郎は表情を変え、ふっと笑った。
「つばを飲んだり、小さくため息ついたり、ユカはすぐ態度に出るからなぁ」
普通の人なら見過ごしてしまうような小さな変化も健一郎は決して見逃さない。
「じゃ、正直に言ったご褒美だ」
「はい・・・ありがとうございます」
彼女のあごを片手でもたげ、こちらに向かせた健一郎が
ゆっくりと顔を近づけさせた。昼間の優しいご主人様を感じるユカ。

 だが夜になれば、きっと最初についた嘘を理由に『おしおき』をされるのだろう。
今日はどんな恥ずかしいことをされるのだろうか?
淫らな想像にうっとりしたまま、ユカは徐々に近づいてくる主人の唇を待ちわびていた。

『コンコン』
「健一郎どの、おられますか?」
ノックの音がし、扉のむこうから老執事の声がする。
「ああ、何のようだ?」
あと、1センチほどで触れそうだった唇が、彼女の前からすっと離れる。
もう少しのところでおあずけを食らったユカは、不満そうにちょぴり唇を尖らせた。

「実は、あるかたが・・・その、いらっしゃって・・・」
「来客か、わかった」

面倒くさそうにぶ厚い本をぱたんと閉じ、窓から降りた健一郎が入り口まで歩くと
がっしりした両開きの扉を押し開いた。ユカも主人の後に続いて廊下に出る。

やや色のあせた深緑色のカーペットがここから本館まで長々と敷かれている風景が
いつものように古風で上品な雰囲気をかもしだしていた。
そしてそこには、執事専用である黒いスーツ姿の痩せた老人がただ一人立っていた。

「じつは、その・・・いらっしゃったのは来客ではなくて・・・」
普段の饒舌な彼らしくなく、もごもごとためらう老執事。
「ふぅ・・・わかったよ。冴(さえ)だな?」
肩でため息を一つつき、健一郎は来訪者の名前を断言した。
「は、はい。そうでございます・・・それで、その・・・・」
「もうここに来てるんだろ?俺の後ろに」
何故そこまで分かるのだろう?とユカが驚いていると。

「相変わらず察しがいいのね、せっかく驚かそうとしたのに」
開いた扉の影。健一郎の背後から一人の女性がゆらりと現れた。
「腐らせるには、惜しい才能だわ」
含みのある笑みを浮かべつつ、彼が『冴』と言い当てたその女性がつぶやく。
濃い血のようなダークレッドのビジネススーツを長身にまとい
後ろで纏め、額を出したヘアスタイル。
獲物を狙う猫。いや、ヘビを思わせるような威圧感のある目つき。

「あら?ヒゲはそったのね。ふふ・・・変な顔」
健一郎の顔を眺め、おかしそうに軽く笑った冴が、ハタと思い直す。

「で、どうして判ったの?あたしが来たのが?」
「・・・香水」
面倒そうに、ただ一言答える健一郎。

 彼の答えから、ユカはうっすらと匂う残り香の存在にやっと気づいた。
確かに、背後に回るため一旦扉の前を通らねばここまで香りはしなかっただろう。
相手が誰なのかも、普段つけている香水を知っていれば簡単に判るはずだ。

「系列会社を使ってまで俺を誘い出したんだ。来るならそろそろだと思ってたよ。
 それに、ここまで入ってくるのはお前ぐらいなもんだ」
やや嫌みな主人の口調に驚いたユカだったが、それより話の内容が気になる。

そういえば、すこし前にやってきた二人組の社員が
『取引先相手がそれとなく健一郎の話をしていた』
と話す内容をユカは思い出した。少し不審に思ったので覚えていたのだが
たぶんあの時の商談先が、彼女だったのだろう。
しかし、取引の相手とは思えない健一郎の言葉づかいが、ユカの心にひっかかった。

「あの、お知り合いなんですか?」
メイドの身分をわきまえ、失礼にならないように質問をしてみる。
「ん・・・ああ、まぁな」
いつもの雰囲気と違う、あいまいな返事をする主人。

「妻よ」
代弁した冴の口から予想外の答えが返された。
「あ・・・・そうなんですか。は、はじめ・・・まして」

 まるで、花瓶か何かでガツンと頭を殴られたようなショックがする。
心の中で何かがひび割れたような感覚に、ユカは目眩がしていた。
自分と彼がメイドと主人の間柄だとは判ってはいたが
改めて自分の立場を思い知らされた気分だった。

確かに二十代後半である主人の年齢からすれば、結婚していてもおかしくはない。
だが、今の今まで姿を見せなかったのは何故なのだろう?
疑問を持つユカにかまわず、冴の話は進む。

「先日はどーも。今日来たのはね・・・」
「分かってるよ。離婚の話なんだろ?」
「そ。別居してしばらく経っているものね。その間もあなた
 仕事するそぶりすら見せなかったじゃない」
別に生活が苦しいという訳ではない。が、仕事をしない夫という
立場の彼にとって、この離婚は不利な状況である。

「いいかげん、親元がうるさいのよ」
うんざりだ、というような言い方ながらも
冴の口ぶりは、あくまでビジネスといったふうに冷静であった。
「慰謝料、どれだけ取れるかしらね、ふふ・・・」
「たいして出ないさ」
脅すような冴の言葉に、何でもないといった感じでしれっと流す健一郎。
ややむっとして冴が言葉を返す。
「そうかしら?こちらはね、あなたが不利になるように
 浮気の証拠、色々そろえてあるのよ」

 ひと呼吸おき、猛獣のように睨みつけた彼女がにやりと笑った。
自分の方が圧倒的に優位だというのを示すように大きな態度で冴が迫る。
「別に浮気をした覚えはない。もとからお前に気は無かったからな」
ぶっきらぼうな彼の反論に冴がキッと睨みつけ、ユカの肩がびくっと震えた。

似ている、とユカは思った。誰かを支配しようと威圧的な態度をする冴の姿は
出会ったばかりの健一郎によく似ているように彼女には思えた。

 精神的に有利になるように、冴が言葉を選んで健一郎を追い込もうとする。
彼女のやり口や考えなど、とっくに判っている主人は
ゲームでも楽しむかのように、スラリとそれをかわす。
冴と主人の刺のある言葉の応酬にユカと老執事は
どうすることもできず、ただおろおろと困惑するばかりだった。

『くそっ、なぜこうなるんだ?』
 内心、健一郎は今の自分がとっている態度が嫌だった。
昨晩ユカが言った通りの、昔と同じ過ちをしない努力。
つまり、冴を傷つけるような真似はしたくなかったのだが
こういう自尊心の強い人間が相手だと、どうしても逆らってしまう癖があるのだ。

「結婚相手以外の女に手を出しておいて、いきがらないでよ」
彼の心境も知らず、何もかも知っているのよ、と言った風に冴がにたりと微笑む。
「出張先で買った大人のオモチャ、いったい誰に使う気だったのかしら?」
どこから調べた情報なのか、彼が出張中に買ったものまでも冴は知っていた。

「ああ、あれか。あのオモチャはとっくに捨てた。」
「・・・・え?捨てちゃったんですか?」
事態が把握できなく、混乱していたユカが思わず口を滑らせる。

 しまったな、という顔をちらっと表に出す健一郎。
だが、それを冴に悟られないよう、彼は瞬時に何でもないそぶりをしてみせる。
「なんだ?捨てて欲しくなかったのか?」

自分のいった言葉の意味にはっと気づき、ユカが慌てて赤くなった。
「いえ!あの!壊れてないものを捨てるなんて
 もったいないって思っただけで!その!・・・別にそんなつもりじゃ!」

あきれた表情で見つめる冴。
「あはは!そう、そうだったの?仕事もしないで何やってるかと思えば
 こんな小娘と乳繰り合ってたのね?」
自分の優位性を確認したのであろう。
冴はクックッと含み笑いをさせながら嫌みな口調で彼を卑下した。
「いったい、いつからそんな趣味になったのかしら?」

 その時、健一郎を手助けしようとしたのか、ふいに老執事が口を割り込ませる。
「奥様、実は健一郎どのは・・・」
「芝瀬(しばせ)は黙っていろ!」
「あ・・・・はい、すみませんでした」
余計な口出しは無用とばかりに、主人である健一郎が彼を制止した。
一対一の決闘のように、二人の言葉の戦いは続く。

「どうりであたしが誘っても、抱いてくれなかった訳ね」
「そうさ。おまえを抱く気なんか、もう無い」
 見せつけるように健一郎がユカの腰を抱き寄せた。

不意の行動。そのまま彼は腕の中のメイドに強引な口づけを与える。
「んんっ!」
突然のキスに恥ずかしそうにくぐもった声を上げるユカ。
冴と老執事はその光景をただ唖然と見つめるしかなかった。

「んんっ!んぅっ!んっ!」
人に見られながらのキスはユカの経験に無いものである。
恥ずかしさのあまり、しばらく抵抗していた彼女だったが
十数秒ものたっぷり時間をかけた舌技をされるうち
しだいにユカは抗う力を無くしていった。

強引だが、それでいてゆったりとした主人の舌の動き。
まるで、口の中の飴玉を転がされるような、甘くとろける味わいに彼女は酔う。
『ちゅぷ』
唇が音を立てて離れ、ツゥと淫らに唾液が糸を引いた。
「ご主人様ぁ・・・」
瞳をとろんとさせたまま、ユカが甘ったるく呟く。

「いっ、いいかげんにしてよっ!」
カッと頭に血が昇った冴が叫んだ。
「あたしがせっかく仕事する気にさせようとしたのに、あなたはこの娘に夢中だったのね!」
怒る彼女にかまわず、黙ったままニヤニヤしている健一郎。
「色ボケするのもたいがいにしなさいっ!」

 ふっと鼻で笑った健一郎が、言い返す。
「乳首、勃起させながら言ってたんじゃ、説得力ないぞ」
はっと表情を変え、赤くなった冴が慌てて両腕で服の前を隠した。
「立ってなんかないわよ!」
「ん?だったらどうして隠したんだ?勃起してなければ、隠す必要ないだろ?」
「ぐ・・・・」
有利に有利に進めようとしても
オセロゲームのように健一郎はあっさりと立場を覆してしまう。
冴唯一のどうにもならない他人。それが彼女の夫、健一郎だった。

「いいわよ!別れてやるわよ!そのかわり何もかも根こそぎ奪ってやるから!」
優位に話を運ぶもくろみがうまくいかず、かんしゃくを起こした冴は
カツカツと大きな足音を立てながら本館へ歩き去っていった。

 言葉も無く、その後姿を眺める三人。
いつの間にか流されてきた厚い雲がどんよりと空を覆い
窓ガラスに雨粒がポツポツ模様をつけ始める午後の事だった。

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